数日続いた体調不良。
たった数日だったが、倦怠感に押しつぶされそうで、このまま闇に引きずり込まれるのではないか、と不安になったほどだった。
その中で、なぜか唯一手を伸ばしたこと、それは、なぜか「言葉」だった。
自分自身でも意外、だった。
普段元気な時はやりたいことは他にもいっぱいあるのに、倦怠感に押し潰されそうになった時、唯一手を伸ばしたのが「言葉」だったのだ。
「元気になったらブログに書こう」と、ノートに細切れの文字をメモした。
誰の目に触れなくてもいいと思いながら綴っているブログ。
でも、手書きの手持ちノートではなく、ウェブに公開されているブログに書くことは、どこかで「誰かに届いてほしい」と思っているのかもしれない。
「手紙を入れた小びん」も、自宅のお風呂に浮かべれば絶対誰の手元にも届かないけれど、大海に向かって放てば、もしかすると誰か縁のある人の手元にも届くかもしれない。
私にとって大切な人に届くのもうれしいけれど、何かの縁でたまたまふっと出会った人の心の苦しさや日常に小さな明かりを届けられたら…、と思っているのかもしれない。
そう、淡い期待、なのかもかもしれない。
人は何気ない言葉で救われることがある。
特別な言葉じゃなくて、たまたまころがっていた小石のような言葉で、ふっと救われることがある。
出会うタイミングと光が差し込む角度で救われることがある。
そう思いながら、Webという言葉の大海に私も少しだけ言葉を遺したい。
そう思うのは「繋がりたい」という人間の本能の鱗片なのかもしれない。
と同時に、言葉を綴る自分自身も、一文字一文字綴る言葉に救われているのだ。
心が壊れてしまう人の気持ちや、病んでしまう人の気持ちが少しだけわかるような気がしたこの数日は、確かに私の中に鋭く深い一石を投じたように思う。
元気になっても、忘れないように大切に覚えておこう、そう思う五十知命なのでした。